十枝の森の由来

 

 

戦前の80数年前、九十九里平野は昭和8年と15年、2度の大旱魃でクワやカマをもっての水争いの絶えない農民救済の為に、時の村長十枝雄三氏が80数キロ先、佐原の利根川から下総(県北部)、上総(県南部)の香取郡、匝瑳郡、山武郡、長生郡、四郡に跨る51町村への引水という壮大な発想をしました。

このことを念頭に50才過ぎから、名誉職で無報酬の県会議員となり、家屋敷を質草に自費の活動で、戦後のGHQ(マッカーサー)との不退転の交渉を重ね、我が国初の世界銀行から当時の5億円の融資を得て、両総用水事業を千葉県事業から、国家事業に昇格させました。

30年かけた事業は昭和31年に完成に至りました。

 

この用水事業完成により近隣の市町村の都市計画により、九十九里平野は一転して国内屈指の穀倉地帯に変貌し、現在の千葉県外房地域の発展の基礎となりました。

この森は、この屋敷で両総用水を発想し、自前の活動費で事業を完成させた十枝雄三翁(十枝家14代)の住居跡地です。


 

十枝雄三翁は無報酬の県会議員で家屋敷を質草に自費の活動であった為、30年を要したこの大事業で家屋敷は人手に渡りましたが、

次女澄子さん(15代当主)は家を守り、縫製の内職収入で家屋敷を取り戻しました。

400数十年続いた十枝家には後継ぎがなく、自然保護を条件に大網白里市に寄贈されました。

現在、十枝家の意をくんで「十枝の森」として自然環境保全を行っています。


 

森の自然は10代当主が明治初期の廃仏毀釈で神官として京都出張の折、持参したイロハモミジが群生しましました。400年を過ぎた楠木とトチノキ・ケヤキなどの大木と、四季に咲く野草の花など豊富な自然が形成されています。

新緑の見事な4月からは、市民の音楽会や11月下旬から染まるイロハ紅葉祭は県内の名所となり近隣住民の「癒しの森」として親しまれています。